株式会社 布屋ヤマウラ 史実の功績 -篠原 新三-

篠原新三

水彩画家(日本水彩画会設立のメンバー)
日展委員(師)石井 柏亭 長野市出身


明治22年7月9日生まれ 資産家である、篠原勝之助の三男として生まれ、長野商業高校を卒業後、小石川水道橋の日本水彩研究所に入所。水彩画の父といわれる、大下藤次郎画伯の指導を受ける。
絵の画風が一番大下画に似ていると思います。大正4年、第九回文展に『雪の或る日』が初入選し、その後、長野にもどる。
長野に戻った新三は篠原新三水彩研究所を設立し、後進の指導にあたる。
大正11年からの3年間は、母校長野商業高校の図画教師として、教鞭をとっていた。
篠原新三の絵は時代の寵児となり東京の画廊が3社画室の前に詰めており、作品を1枚仕上げる たびにその絵を おしいただいて、東京に持ち帰っていったそうです。
1929年の世界大恐慌前には絵だけで7~8万円の預貯金があった。
現在で言うと数億円でありましょうか。 新三の評価についてはネットで検索してください。

篠原新三家系図はこちらから>>


厳冬の妙高

湖と山脈

姨捨 (代表的な風景画のポイント)

篠原新三の絵は散逸しております。新三の絵をお持ち の方はご連絡をいただければ幸いです。


長野県美術全集より

北信濃の美術 十六人衆より


篠原家と長野駅の話

篠原家は丹波島の渡から石堂まで250石の大庄屋でありました。信越線が直江津より起工され明治21年5月に長野駅が開業しておりますが、当初の計画では松代に長野駅は予定されておりました。
ここで沿線住民の反対にあい、工事がストップしていたところ、篠原家より、「私どもの土地を提供しましょう」と申し出て現在の地に長野駅があります。そのため、篠原家の土地は線路をはさんで、南と北に分断されております。

また、松代も反対しなければ、今の町並みもずいぶんと変わっていたことでしょう。